とある元大学院生のブログ

音声学の研究室に所属しながら教育工学の真似事をやっていました。日本語教師を経て現在ITコンサルタント。

アカデミックな世界から離れました

タイトルの通り、2021年3月をもってアカデミックな世界から離れております。今回はその経緯や今考えていることをつらつらと書いていこうと思います。

あと自分のブログ名が「大学院生の」ってなってますが、もう大学院生終えてから2年ほど経ってます。

 

この文章を書くきっかけ

最近ゆる言語学ラジオを聞いております。


www.youtube.com

 

肩書的には一般の人が、アカデミックな知見に基づいて何かを話そうという姿勢に感動しています。これを聞いて、「仮にも博士課程までいったんだから、何か社会に還元しなければならぬ」と思い立ちました。まあそれは半分だけ本当で、実は転職活動期からどこかで自分の経験を整理したいと思っていました。ゆる言語学ラジオにはその背中を押してもらったような形だと思っています。ありがとうございます。

お礼ついでに宣伝すると、サポーターコミュニティがあって、そこで現ナマをもって応援できます。


www.youtube.com

 

転職した経緯

2013年に修士課程に進学し、2015年からは博士後期課程に在籍していました。あまり表にはだしていなかった(?)んですが、2018年4月から日本語学校で専任講師として勤務していました。2019年からは3つほどの大学の非常勤講師もしており、研究職を志す日本語教師という少しレアな立場でした。

ところが、2020年3月に新型コロナウィルスが流行しはじめ、留学生は日本に入ってこれない状況が訪れます。大学はともかく、その状況で教員を支える財力を持つ日本語学校は少なかったのではないかと思います。僕も「自分で生きていけるタイプの人は自分で食い扶持を探してほしい」というおもしろセンテンスが校長から出てきて、2021年3月をもって退職することになりました。

現在はITコンサルタントとしてRPAというクソ技術を売って生きています。この話は別で機会があれば書いていきます。

 

研究から離れるという恐怖

イベントごととしては上記の通りなんですが、心理的には少し違う部分がありました。これまでは「研究者を目指すんだ(大学教員を目指すんだ)」というある種の大義名分があったので、知識があったり、何か小難しいことを話せたりする人というだけでも十分に居場所がありました。研究から離れる、アカデミアから離れるというのは、そういった後ろ盾を自分自身に無くす、つまり言い訳ができなくなることでした。

実際問題として、日本語教師になってからは大して論文も読まず、読まないので書くこともなく、ゆったりとした時間を過ごしていました。年に1、2回研究発表ぐらいはしていましたが、それもこれまで聞きかじった蓄積をこねくり回しただけで、「自分自身の専門性」というのは持たずに過ごしていたという認識があります。しかし、自分の立場は「研究を主たる生業とする大学教員を目指す者」だったわけです。

しかし、日々の習慣というのは怖いもので、「論文を書くために生活する」という意識、習慣が体から抜けてしまうと恐ろしいもので再開ができません。再開できずに基礎的な教科書ばかりを読んで、勉強した気分になって次の授業準備をして寝る。そんな日々が続いていました。

そんな中で、「研究活動から離れ、一般企業に勤める」というのは、堕落した自分自身との決別の意志でもあり、実態の伴わない肩書に自身の存在を依存させている状況を治療することでした。研究をしているから正当化されると思っていた自我や生活の優先順位、振る舞いは研究をしないことを明らかにすることで崩れさりました。

ただ「もう博士号が取れるとは思えない。研究から離れる」ということを言葉にして認めた時、すごく体が楽になりました。毎日睡眠がとれるようになり、時間の使い方に「今の時間を研究に使っていれば」と後悔することもなくなりました。

 

アカデミックな世界から離れるということ、自分は研究者にはなれない(ならない)と決めたことは非常に大きな決断でした。これは「つらかった」とか「やめてよかった」とか一概に述べられるものは少なく、自分が過ごしてきた大学・大学院の10年以上の生活と明らかに連続しています。あまりに語るに複雑すぎることを改めて感じました。

 

今回、長くなってきたので中途半端ですがこのあたりで終わろうと思います。次回はなぜ博士号を取れなかったのか、大学院生時代を振り返りながら書いていこうと思います。

ちなみに、「研究から離れた」と書いていますが、統計の勉強会を続けていたり、共同研究で研究助成の申請をしたりしています。