とある元大学院生のブログ

音声学の研究室に所属しながら教育工学の真似事をやっていました。日本語教師を経て現在ITコンサルタント。

博士号が取れなかった理由(学内編)

すでにアカデミックな世界から離れたのは前に述べた通りです。

takayuki1123.hatenablog.jp

 

一般企業に就職する理由として、コロナによる退職があったのは間違いないんですが、もっと言えば「博士号を持っていないために大学での職がなかった」ので一般企業を選ぶしかなかったわけです。もちろん博士号を持っていれば就職できるわけではないですが、そもそも現実的に選択肢として持てませんでした。そこで、なぜ博士号を取れなかったのかを並べていこうと思います。

大雑把に「それはお前の努力が足りないからだろ!」と言いたいポイントが多数あるかと思いますが、それについての反省と後悔は死ぬほどしているのでご勘弁ください。

まずはじめは大学院進学後の状況から入り、学内編とします。後ほど外とのかかわり(学会編)を書ければと。

印象が悪く映らないか非常に不安なので冒頭で明記しますが、指導教官には感謝しかないので、これから書く文章で迷惑をかけないか本当に不安です。ちなみに研究に関しての具体的な話は、すでに公開されているもの以外には触れません。

 

前提

私は某旧帝大の総合系の大学院の応用言語学研究室に所属していました。伝統的な小講座制の研究室で*1、かつ研究室が物理的にほかの言語学系の研究室とは離れていたため、ほぼ他所の研究室との交流はありませんでした。交流とは勉強会や共同研究を指しています。

ちなみに、言語学系と外国語教育系は別の分野として存在しており、私は言語学系の研究室にいながら外国語教育系の研究をしようとしていました。

また、私的な問題ですが、仕送りがなく、奨学金とアルバイトのお給料で生活していました。そのためだけではないですが、先生が研究費を取ってきて、そのお金でアルバイト代を稼がせてもらうという生活のおかげで大学院進学が叶いました。

学部では不真面目な4年間を送っていたため、教員免許を持っていなかったり、英語がロクにできなかったり、専門分野についての知識がなかったりという状況で修士課程*2がスタートします。あったのは数名の先生からいじられるその人間関係だけです。

 

先輩がいない

研究室には先輩がほぼいませんでした。まずM1の段階でM2に留学生が1人、あとは研究室に来ない博士課程の留学生が2人しかいませんでした。同期も2人とも中国人留学生で、ただでさえ少ない内部進学組かつ唯一の日本人学生でした。これが何を示すかというと、「これからどういった生活をすれば何が待っている」ということを教えてくれる人がいないことです。これは大きなハンデでした。いくつか難しいポイントを挙げていきます。

読むべき文献が分からない

「あなたのテーマだとこの論文や雑誌がいいよ」とか「古典的な教科書はこれだよ」とか「こんな知識がないと死ぬよ」みたいなことを教えてくれる人がいませんでした。自分の興味のある内容がどんな言葉で論文になっているのかを分かるようになるまで数か月かかります。まともに検索もできていなかったのではないかと思います。他の大学院ではエリスだクラッシェンだと言っている間、小学校の英語授業体験記みたいな論文を読んでいたような気がします。読んでなかったような気もしますが。

文献の読み方が分からない

個人的にはこれが一番大きな課題でした。これがおおよそ解消されたと実感できたのは博士課程の5年目(すでに就職していた)ぐらいです。

まず私は「論文に書いてあるんだから非常に深く考えられ、客観的に正しさが保たれたものだ」というアカデミック信仰がありました。なので、「もう論文(や本)に書いてあるんだから」と、批判的に読むという経験をほぼできていませんでした。内容がおかしいと感じるのは自分の勉強不足だからだと考え、次なる文献に挑んでいました。

論文はある程度章に分かれていて、背景や理論的枠組み、実験手法とその報告、分析が掲載されています。そうすると読むべきは各章の内容の妥当性(論理展開や手法は正しいか)、章ごとの論理的つながり、全体の妥当性あたりになります。たとえば実験手法では実験デザインや統計処理についての知識がないと理解ができません。理論的枠組みを知るにはおおよそ引用されている先行研究や学術的・専門的常識について知らなければ読むことはできません。

こういったことを少しでも理解していればもっと1つ1つの文献を読むことに時間がかけられましたし、そうしなければなりませんでした。論文を読んでいても自分が直感的に理解できる一節を読んで、分からないところは飛ばす(目が滑る)ような状況でした。読めていないことすら自覚できていない状況だったのです。

大学院的イベントが分からない

大学院では研究室やゼミ単位での研究発表・勉強会のほか、発表中心の授業が中心になります*3。これらは1つのイベントだと個人的には思っています。というのは発表には形式や内容、質疑応答で答えるべきことには一定のお作法(ルール)があるからです。このあたりはM1は右も左も分からないまま進んでいくのでしょうが、研究室ごとに色が異なり、よその授業と同じテンションで発表すると失敗した、みたいなことが起こります。

また、就活や進学の準備、修論の中間発表なども学部生より真剣さが必要ですが、どこからも情報が入ってこなかったため心理的にはハードルが高かったです。

あと最も大きなのは学振*4です。これはたしかM2の6月ごろに出願する必要があるのですが、結構な研究計画を丁寧に書く必要があり、生半可な構想ではなかなか通りません。就活をしないで博士進学を決めたM1の後半ぐらいには学振を視野に入れて動き出すのでしょうか?僕は学振を知った1週間前に書類を書き始めました。先生が教えてくれなかったのは単に僕が学振に出すまでもない状況だったからでしょう(実際先輩には学振に通っている人がいた)。ここで分かりますね、研究計画書なんて書いたことはもちろんありませんでした。

研究テーマが頻繁に変わる

私はもともと関学の寺沢さんの主張にいたく共感というか、賛同というか納得し、大学院では小学校英語教育批判を行うつもりでした。当時はアカデミック信仰が強かったので「現在分かっている言語学・外国語教育の見地から小学校の英語教育はすべて批判できるだろう」と思っていたのです*5

ですが、M1の半ばか後半あたりから研究テーマが一変します。先生に誘われ(?)、情報処理の分野の方との共同研究が始まりました。この研究はD2あたりまで続くのですが、この時期から実験とデータ整理で1日が終わるようになっていきます。共同研究者が作ったプログラムの実験参加者を集めるために事務手続きや参加者集め、参加者との日程調整に実験立ち合い、その整理とピーク時は飲み会後に大学に戻ってくることも当たり前でした。

ここで問題なのはやはり研究のお作法を知らないことでした。私は「まあこれだけ働いて論文が出るならありだろう」というような理解で「お手伝い」をしていたつもりでした。共同研究というのはそんなものではなく、「お互いが同じ素材(ここでは実験など)を使いながら、それぞれの視点で論文を書く」ということをしなければいけません。リソースの共有と言えば聞こえはいいですが、限られた時間の奪い合いでもあります。そのあたりの見込みの甘さが邪魔し、よく分からないことに時間を使ってしまいました。今ならもっとできることがありますが、すべてが中途半端で無知だった私には結果的に荷が重い作業となってしまいました。

ちなみに研究に対しての意見の相違から、D2という大詰めの時期に共同研究はなくなりました。その後D3から研究テーマが変わります。このころには自分は何者なのか分からなくなっています。

*1:教授・准教授・助教・助手などからできている大所帯の教 室

https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/070131kasuga.htmlより引用

*2:今後表現のばらつきが散見されます。M○は修士課程○回生(年生)、D○は博士後期課程○回生(○年生)を指します。博士課程と博士後期課程は同じ内容を指します。

*3:講座制のため、というのはあるかもしれません。コースワーク制というもあって、体系的に知識を学ぶことができると聞いたことがあります。

*4:博士課程以降の研究者は、日本学術振興会に所定の手続きを行った上で格別に優秀だと認められれば研究費や生活費がもらえる制度。こんなにざっくり書くと怒られそう。

*5:もちろん寺沢先生はこんないい加減なことは言っていません。